アルバイト [70年代クロニクルズ]
学生時代に実家から毎月送られてくる現金書留には、いつも3万円が入っていました。
家賃と光熱費を払うと、手元に残るのは2万円。
食費とタバコ代の他、池袋の文芸坐に5~6回通うと、その2万円はキレイになくなりました。
カツカツだけど、何とか暮らしていける金額でした。
手持ちがなくなると、学食で30円のライスを注文し、七味と醤油をかけて昼食を済ませた。
学費や生活費を自分で稼ぐ猛者もいたから、自分は恵まれているほうだと思っていた。
しかし、仕送りだけでは本やレコードを買うことは難しく、時々短期のアルバイトをした。
当時のアルバイトの時給は330円~380円で、1日やれば2,500~3,000円ぐらいになった。
夜警のアルバイトは、もっと高額だったような気もする。
テレビの時代劇のエキストラもよくやった。
プロの撮影現場を見ることができると思って始めたのだが
エキストラは背景の置き物のような役割なので、いつもキャメラから遠いところに立たされた。
髪も長かったので、ヅラをつけてもらえず、ほっかむり姿で荷車を引いたり
大名行列のシーンで道端にしゃがみ込んで一日中土下座、そんなことばかりやらされた。
1974年の夏「東京キッドブラザース」は2度目のニューヨーク公演を計画していました。
その公演に随行するため、僕は渡航費を稼がなくてはならなかった。
羽田からニューヨークまでの格安往復航空券は25万円。
40年前の航空券の値段は今の3倍ぐらいしてました。
航空券代25万円と滞在費を10万円として、合計35万円を稼ぐにはどうすればいいのか。
1日に3つの仕事をかけもちする計画を立てた。
06時~09時:有楽町でオフィスビルの掃除。
10時~15時:神田の天ぷらやで洗い物と出前。
16時~23時:池袋の鰻屋でウェイター。
まあ、やれるだけ、やってみようと。
5時に江古田のアパートを出て、戻ってくるのは24時。
朝から夜中まで働いて、ひと月に13~14万円ぐらいの稼ぎだった。
辛かったのは、バイト先の休日がそれぞれ違うので、まる1日休める日がないことでした。
それでも、食事はアルバイト先で賄うことができたし
鰻屋では、仕事終わりにシャワーを使わせてもらっていたので、銭湯代も浮きました。
さらに、江古田~有楽町の定期があるので他のバイトの交通費を浮かすこともできた。
飲食のアルバイトの楽しみは、賄い料理です。
天ぷら屋の賄いは美味しくて、あっというまに平らげてしまい
さらにお替りしたご飯に、天かすをのせ丼つゆをかけて食べていた。
鰻屋も同じで、お替りしたごはんに売れ残りの兜焼きや肝焼きをのせ
うな丼の丼つゆをかけて食べた。
2月~4月までの3ヶ月間、僕はそれらのバイトに没頭した。
目標額の35万円分の仕事を終えた時、すべてのバイトを辞めました。
7月、先に行った劇団員たちを追いかけて、僕はニューヨークへ出発した。
いろんなアルバイトをやりましたが、3つの仕事をかけもちしたのは最初で最後でした。
お金はなかったけれど、それが普通だったし貧乏だとも思っていなかった。
過ぎ去った時代は美しく見えるのかもしれないが
僕にとっての70年代は、無邪気で、清々しくて、自由な空気に満ちていた。
何よりも、希望があった。
家賃と光熱費を払うと、手元に残るのは2万円。
食費とタバコ代の他、池袋の文芸坐に5~6回通うと、その2万円はキレイになくなりました。
カツカツだけど、何とか暮らしていける金額でした。
手持ちがなくなると、学食で30円のライスを注文し、七味と醤油をかけて昼食を済ませた。
学費や生活費を自分で稼ぐ猛者もいたから、自分は恵まれているほうだと思っていた。
しかし、仕送りだけでは本やレコードを買うことは難しく、時々短期のアルバイトをした。
当時のアルバイトの時給は330円~380円で、1日やれば2,500~3,000円ぐらいになった。
夜警のアルバイトは、もっと高額だったような気もする。
テレビの時代劇のエキストラもよくやった。
プロの撮影現場を見ることができると思って始めたのだが
エキストラは背景の置き物のような役割なので、いつもキャメラから遠いところに立たされた。
髪も長かったので、ヅラをつけてもらえず、ほっかむり姿で荷車を引いたり
大名行列のシーンで道端にしゃがみ込んで一日中土下座、そんなことばかりやらされた。
1974年の夏「東京キッドブラザース」は2度目のニューヨーク公演を計画していました。
その公演に随行するため、僕は渡航費を稼がなくてはならなかった。
羽田からニューヨークまでの格安往復航空券は25万円。
40年前の航空券の値段は今の3倍ぐらいしてました。
航空券代25万円と滞在費を10万円として、合計35万円を稼ぐにはどうすればいいのか。
1日に3つの仕事をかけもちする計画を立てた。
06時~09時:有楽町でオフィスビルの掃除。
10時~15時:神田の天ぷらやで洗い物と出前。
16時~23時:池袋の鰻屋でウェイター。
まあ、やれるだけ、やってみようと。
5時に江古田のアパートを出て、戻ってくるのは24時。
朝から夜中まで働いて、ひと月に13~14万円ぐらいの稼ぎだった。
辛かったのは、バイト先の休日がそれぞれ違うので、まる1日休める日がないことでした。
それでも、食事はアルバイト先で賄うことができたし
鰻屋では、仕事終わりにシャワーを使わせてもらっていたので、銭湯代も浮きました。
さらに、江古田~有楽町の定期があるので他のバイトの交通費を浮かすこともできた。
飲食のアルバイトの楽しみは、賄い料理です。
天ぷら屋の賄いは美味しくて、あっというまに平らげてしまい
さらにお替りしたご飯に、天かすをのせ丼つゆをかけて食べていた。
鰻屋も同じで、お替りしたごはんに売れ残りの兜焼きや肝焼きをのせ
うな丼の丼つゆをかけて食べた。
2月~4月までの3ヶ月間、僕はそれらのバイトに没頭した。
目標額の35万円分の仕事を終えた時、すべてのバイトを辞めました。
7月、先に行った劇団員たちを追いかけて、僕はニューヨークへ出発した。
いろんなアルバイトをやりましたが、3つの仕事をかけもちしたのは最初で最後でした。
お金はなかったけれど、それが普通だったし貧乏だとも思っていなかった。
過ぎ去った時代は美しく見えるのかもしれないが
僕にとっての70年代は、無邪気で、清々しくて、自由な空気に満ちていた。
何よりも、希望があった。
若い頃の好男子をほうふつさせられました。今でもお金の使い方もきれいな方だと思います。
それに比べて…。
by beny (2013-11-07 08:51)
素敵な青春の思い出を有難うございます^^)☆
私の世代は恐らく10年ほど後です
上京して初めてのバイトは中華屋の皿洗いでした
夕食が食べられるので有り難かったですね☆
時給は確か600円だったように記憶しています
それから家庭教師や製紙工場 建設現場 地下鉄建設
楽器を買う資金を作るために短期高額バイトをよくしました☆
目標の金額が貯まったら辞めてしまうのですが。。。
今となっては私も素敵な思い出です^^)
息子達がその年代になったとき どのような経験ができるのか
興味津々です(^m^)
by 獏 (2013-11-07 13:05)
バイトかけ持ち3つは大変でしたでしょうが
はっきりした目的があるとやれてしまうんですね。
当時まだ小学生でしたけど、確か1ドル365円ほどで、
海外旅行は普通の人には出来なかった時代でした。
初めてのバイトは中学から高校へ入る間の春休み
郵便局のはがきの仕分け、時給500円もらえたかな~?
その後は、ウェイトレス、デーパートの売り子、不動産屋の案内、
寿司屋、広告代理店、写真屋で現像とかもやりました。
本当に、今となっては懐かしい思い出ですね^^
by ケロヨン (2013-11-07 13:51)
目標があってするのは苦になりませんよね
僕は体育会系の高校だったのでもっぱら引越屋でした
先輩に連れられて行ってましたがご祝儀がバイト代を上回ることも
それより 親父が商売してたので 朝、母に起こされると
休むって電話入れといたからと言われ 学校を休まされ
朝から晩まで 中国から届いたコンテナに満載のTシャツを
仕分けさせられたりしましたね~ 多い時は 3台4台のコンテナが
着いていたので 1日力仕事させられました
両親との良い思い出です(^^)
by (。・_・。)2k (2013-11-07 14:18)
3つバイトはスゴイですね。
我が家の娘は、2つのバイトをこなしています。
コンサートに行くためお金がいるとのこと。
遊べるのも大学3年生までなので、
頑張って遊びたいと言っていましたね。
by なんだかなぁ〜!! 横 濱男 (2013-11-07 14:39)
アルバイトの掛け持ちはしたことがないと思いますが
いろいろなアルバイトをしましたね。
アルバイトを変わるたびに、無休の時の悲哀と頼りなさを味わいました。
でも、おっしゃるとおり貧しかったけれど
貧乏とは思いませんでしたね。
パンを食い、文庫本を読み、着たきりのジーンズをはいて
当てもなく街をさまよってました。
自由で気楽で暢気な日々でした。
by そらへい (2013-11-07 16:08)
高校時代からアルバイトはしていましたが、
生活費と学費を稼ぐためでしたね。
父親のいない子沢山の家は貧乏でしたから。
お金はなかったら困りますが、貧乏でもなんとか生きては行ける。
そんなことを学んだ青春でした。
by あるいる (2013-11-07 16:18)
バイトは食べるためにやりました。
夜間の学校に行き 学校が終わったら バイト 夜中遅くまで働いて
朝は朝から バイト でもその時学んだことは人生の糧でした。
by ゆうみ (2013-11-07 17:29)
のほほんと学生時代をすごしました
地元の大学、自宅から通学と、、
でも、バイトはしていました
画廊や美術館の受付、大学の教授の秘書、ミュージカルの劇場案内とか、、今から思うとかなり偏った職種ですね、一つはじめ多バイトから、連鎖的につながっていったように思います、親しくお話する年代層が広がり、随分勉強になりました
by engrid (2013-11-07 17:44)
ばいとといえば新聞配達や牛乳配達をやりました。
by 馬爺 (2013-11-07 17:50)
夢に向かっている姿は凛としてカッコいいですね
若いので身体も心も頑張りが利きますし
それを辛いとも思わないのは目標があるからでしょうね
素敵な思い出があって良いなぁ♪
by めい (2013-11-07 22:21)
私も池袋文芸坐や高田馬場・パール座、早稲田松竹には
よく名画を観に行きました。
早稲田松竹¥350、パール座¥300、文芸坐¥250
だったのではないかと思います。
by NO14Ruggerman (2013-11-07 23:09)
残念(?)ながら
バイトの経験はありません・・・
親が許さなかったのです
今 思うと変わった親だったな
と思うコトもあります(笑)
>始めの頃から~
そう言って頂けると嬉しいです
これからもよろしくお願いいたします
by タイド☆マン (2013-11-07 23:11)
バイト。私もいろいろやりましたが自宅通いだったので、小遣い稼ぎ。何か目標立ててのものでは無かったのであまり苦労は感じなかったなぁ。もう一度あの頃に戻れるなら、cafelamamaさんのように真剣にバイトして海外放浪の旅がしてみたい・・・しておけばよかった。(笑)
一日時間を潰すことが出来た名画座も忘れえぬ思い出です。
by KEI (2013-11-08 02:02)
女性はバイトにならないから、掛け持ちは2つまでかな。
半年で体を壊してしまいました。
目の色を変えて稼いでいても、年収にすれば数百万円レベルでした。
その時間を芸事か勉強に打ち込むのが大きな投資と知るのは後年。
だから子どもたちには「勉強すれば金になる」と教え込んできました。
私の場合は危ないバイトで稼ぎ、コケてましたから。
せめて我が子にはマットウに育ってもらいたかった。
バイトは青春の代名詞、老いてやるものではないなと思います。
老いてやるのはボランティアと決めています。
・・・海の家、あこがれておりまする。
by tommy88 (2013-11-08 05:32)
無理が効いた若い頃は、金より大切なものがあった・・・
形にならなくても今を支えているのでしょうね。
by たいへー (2013-11-08 07:39)
■benyさん
コメントありがとうございます。
お金の使い方、僕はダメダメでした。
若いころは貯金する余裕もなかったのですが
無くてもどうにかなったものです。
さすがに年を取ると、無いとどうにもならないので
無駄なものは買わないようになりました。
■獏さん
いろいろなバイト経験がおありですね。
製紙工場、建設現場、地下鉄建設などは高額だったのではないでしょうか。
僕は賄い付きのアルバイトばかり探していたので
飲食が多かったですね。
息子さんたちが、どんなアルバイトをするのか楽しみですね。
わが息子たちも、学生の時は飲食をずっとやってました。
大学卒業後、その店に就職するほどのめり込み
今でも、その仕事を続けています。
※獏さんのブログの画像認証が表示されません。
■ケロヨンさん
ケロヨンさんのバイト歴も多彩ですね。
寿司屋~広告代理店~写真屋
このあたりの変遷が興味深いです。
若いころは、目的があると一直線に向かっていきました。
考える前に自分の直感で動いていたんでしょうね。
そしてその直感を信じる気持ちがあった。
エネルギーもあったし。
年を取ると、どちらも失われますね。
■2kさん
引越し屋の祝儀、うれしいものでしょうね。
しかもバイト代を上回る額なら。
家業の手伝いで学校を休まされるのは、ちょっと辛いですね。
でも、そのことが今でも両親の思い出になっているというのは
いい話です。
両親との思い出って、案外そんなことが多いかもしれません。
■なんだかなぁ〜!! 横 濱男 さん
アルバイトをしてチケットを買って行ったコンサートは
生涯、忘れない思い出になるのではないでしょうか。
頑張る娘さんを応援します。
正常な遊び方は、いづれ身のためになるように思います。
■そらへいさん
>パンを食い、文庫本を読み、着たきりのジーンズをはいて
当てもなく街をさまよってました。
そういう生活は、僕らの時代と同じような気がします。
文庫本が映画に変わるだけですが。
お金はなくとも、あの時代のなんと自由なことか。
年を取ると、そういう自由さがなくなったように思います。
それとも、さらに年を取ると
あの時代のような自由さを、ふたたび感じることができるのでしょうか。
■あるいるさん
>貧乏でも何とか生きてはいける。
そう思います。
お金がなければ、ないなりの幸福もあるし自由もあると思います。
お金があっても不幸な気持ちになったり窮屈なこともあると思います。
生きるための糧は必要ですが、欲がありすぎるのも困りものです。
やっかいな問題を抱えたくはないですし。
ほどほどに生きることの幸福を考えていきたいと思います。
■ゆうみさん
生きる糧は必要ですね。
ただ、人はパンのみに生きるに非ず
というのも真理だと思います。
食べるために働くこともありますが、
それだけでは人生はつまらないと思うのです。
バイトの収入は、好きなものを買うためでしたが
今になると自分への投資だったような気もします。
■engridさん
大学教授の秘書というのは、面白そうなバイトですね。
ミュージカルの劇場案内も興味深いです。
アルバイトは、気軽に違う世界を覗けるという感覚がありました。
僕の場合は飲食でした。
賄いがつく店ばかり探していました。
おかげで、働きながら、飲食の裏表を興味深く観察できました。
■馬爺さん
新聞配達と牛乳配達は、アルバイトの王道ですね。
中学時代にやりたかったんですが
親が反対してやらなかった記憶があります。
その時、アルバイト代で買いたかったのもレコードでした。
■めいさん
あの頃でも、少し無謀かな?という思いはありました。
でも、他に方法がないし、やるしかないという感じでした。
目標があると頑張れるものですね。
19歳だったし、直観的な行動に躊躇がなかったんですね。
後年、それで失敗することも多々ありましたが。
■NO14Ruggermanさん
懐かしい映画館の名前がたくさん出てきてうれしいです。
パール座、早稲田松竹、いい映画館でしたね。
ぼくの学生時代は文芸坐は、2本立て150円でした。
田舎の映画館より安い料金にびっくりしました。
いつも、いい番組を上映していたので
文芸坐にはよく通いました。
■TIDE☆MANさん
中学時代、新聞配達をやろうとしたら親が反対しました。
僕の場合も、親は何かにつけてネックでした。
■KEIさん
あの頃に戻りたいという、無邪気な願望、僕にもあります。
あれも、これも、もう一度やり直したいですが
そうもいかないのが人生ですね。
その時、自分が選択したことが正しいかどうかはわかりませんが
そこで経験したことや失敗したことが
後年、仕事に生かされることもありました。
名画座には、ほんとにお世話になりました。
■tomyy88さん
稼ぐ金額は問題ではありませんでした。
その時、自分が欲しいものを買い
行きたいところへ行けさえすればよかったわけです。
チャートや相場に関係なく、信じたことにお金を遣う。
それが投資です。
まさに見る前に跳べ。
自分の直感を信じて行動し、得たもの失ったもの
それらの経験や失敗が、後年の人生の糧になるはずです。
僕のいたプロダクションにも、東大出がけっこういましたが、
連中は、まったく仕事ができませんでした。
中途半端な学力プライドは、社会に出たら簡単にへし折れてしまいます。
彼らは正常な発情期を迎えてないのだと思いました。
発情する時期を逸した人間は、どこかで発育がおかしくなるものです。
僕は老いても機会があればアルバイトをやりたいと思います。
大金は欲しくないですが、正常な金銭感覚をいつまでも持っていたいのです。
当地で畑仕事をやっている老人にボケた人はいません。
■たいへーさん
おっしゃるとおりです。
金より大切なものがありました。
それは、今でもそうだと思います。
お金は、そういうことに使われるべきだと思います。
やがて、それが糧になって自分を支えるのだと思います。
by cafelamama (2013-11-08 14:14)
「何よりも、希望があった」、若い日のほろ苦い日々、ですか。
by mwainfo (2013-11-08 14:26)
こんばんは。
私の場合、家からの仕送りは8000円だったような…
by 夏炉冬扇 (2013-11-08 18:25)
目標のための頑張りは苦しさより、楽しみの方が大きく感じる
ときがありますね。
それにしても早朝5時~24時は凄いですね・・・(^.^)
by ken (2013-11-08 19:51)
私も江古田の住人でした~仕送りも3万円でした。懐かしい。
by マリエ (2013-11-08 20:15)
僕は大学時代、コンサート・プロモーターやテレビ局の事業部でバイトしてました。
イヴェント仕切ったりしてたんですが。
日払いのバイト代。
ほとんどは一緒にバイトした仲間と飲んだり、レコード買って散財してました。
貴重な体験をさせていただいたコトは確かですが、
今にはほとんど繋がっていません^^;
by DEBDYLAN (2013-11-08 23:28)
「当地で畑仕事をやっている老人にボケた人はいません」
けだし名言。
結局はそういうことだと思います。
by tommy88 (2013-11-09 06:06)
■mwainfoさん
ほろ苦い日々。そうかもしれませんね。
今よりは、希望に満ちた時代だったです。
■夏炉冬扇さん
8,000えんですか。
その内訳に興味あります。
今度記事にしてください。
■kenさん
そう、思います。
毎日疲れきってアパートに戻りましたが
モチベーションが落ちるということはありませんでした。
目標があると、苦しくても頑張れるものですね。
■マリエさん
もしかすると、江古田ですれ違っていたかもしれませんね。
僕は北口の小竹町というところに住んでいました。
江古田の町には、いろんな思い出があります。
■DEBDYLANさん
コンサートイベントのアルバイト、面白そうですね。
自分が準備した会場で、アーティストの演奏を見るのは格別でしょうね。
かつてのアルバイトが今に繋がってなくとも
その時の経験は、後年、何らかの形で
ご自身の糧になっているのではないかと思います。
by cafelamama (2013-11-09 09:23)
40年前の航空運賃、「25万円」ってびっくりするくらい高額ですね!
アルバイトは、あくまで「目的」のための「手段」
・・って思ってたハズなんだけど
けどいつの間にか、その「目的」が揺らぎ、遠のき
「手段」で稼ぐお金が生活費へとまわりはじめたと感じたとき
今思えば、あれが挫折の第一歩・・だったかなぁ
by はなだ雲 (2013-11-09 11:34)
なかなか凄い時代でしたね。
3つのアルバイトの掛け持ちとは・・・
大学1年のマクドナルドのアルバイト
そういえば、時給360円でした。
by 八犬伝 (2013-11-09 13:06)
■はなだ雲さん
あの頃の航空券、高かったです。
たしか羽田~ロスは15万円でした。
>「手段」で稼ぐお金が生活費へとまわりはじめたと感じたとき~
生活するためのお金は必要ですが
はなだ雲さんは、それだけではないはず。
自分のために使ったお金は、いつかは糧になるものと思います。
僕も若いころのように無邪気な希望を持つことはできないけど
今でも希望を抱いて生きています。
挫折というふうに考えるより、新しい物語が始まったのだと
考えてみてはどうでしょうか。
余計なお世話と思われたら、ごめんなさい。
■八犬伝さん
マクドナルドは360円でしたか。
あの頃、330円ぐらいから10円単位の微妙な自給設定がありましたね。
自給が400円の大台にのるのは、少し後でした。
by cafelamama (2013-11-09 20:25)
まるで、青春ドラマをみているような20代ですね。
感動しました。
僕はアルバイト・・・といえば某楽団のバンドボーイ、某警備会社での夜間警備・・・家庭教師・・・これくらいかなぁ・・・
さすがに3つ掛け持ちはしたことがありません。
by 駅員3 (2013-11-10 08:53)
やっぱり、スポーツでもお仕事でも、何か目標があって体が鍛えられるほど打ち込むって、お話を聞くだけでも元気が出ます♪
by さつき (2013-11-10 21:24)
眩しいほどキラキラしている時間ですね・・・。
年齢を重ねても、状況が変わっても、それぞれのシーンで
なんとか精神的な時間を持ちたいものですね。
by JF (2013-11-11 00:21)
アルバイトは、高校生の夏休みに肥料工場の倉庫で、ベルトコンベアーの上に、三十キロの袋と、最大四十キロの袋を載せ続ける仕事でした。最初の日は脚が攣りました。最初にもらった稼ぎを何に使ったか思い出せません。あの頃確かに希望がありました。大人たちも汗臭いけど輝いて見えました。
by SILENT (2013-11-11 01:43)
■駅員3さん
家庭教師は時給も高かったでしょうね。
バンドボーイのアルバイトと言うのがあったんですね。
面白そうです。
僕は自給は平均的な額でも
賄いがつく仕事ばかりやっていました。
■さつきさん
若いころも、3つ掛け持ちは自信がなかったけど
目標があったので、頑張りきることができたのでしょうね。
■JFさん
コメントありがとうございます。
あの頃は、お金がなくても無邪気な希望を持って生きられた時代でした。
年を取るごとに無邪気さは失われますが
いつまでもあの頃のような精神性を感じながら暮らしていきたいですね。
■SILENTさん
30㎏~40㎏の袋を扱う仕事は大変でしたでしょね。
僕も高校の時、セメント工場でアルバイトした時は
重い袋を担がされました。
そのバイトで買ったものはフランシス・レイの2枚組サントラでした。
それと、MG5のヘアトニックを買いました。
何か欲しいものがあるとバイトしてましたね。
by cafelamama (2013-11-11 13:24)
目標があると、その為にはどんなに無理をしても頑張れるんですよね。
若いってどんな無理もきいてしまうから怖いもの無しで
突き進む事が出来てしまうのかも知れませんね。
by may234 (2013-11-12 08:04)
コメント&nice!ありがとうごじました<m(__)m>
プロフィールを見たら、僕と誕生日が13年と1日違いですね^^;
by まー坊 (2013-11-12 22:44)
■may234さん
最初は無理かもしれないと思っていたんですが
やっていくうちに頑張り切れてしまうものですね。
若さゆえのことだと思いますが。
■まー坊さん
花貫渓谷、遊びに行ってきます。
まー坊さんも2月生まれなんですね。
これからもよろしく、です。
by cafelamama (2013-11-13 15:49)
1969年、上京したとき19歳。就職したラーメンやさんがそれからたった3か月で閉店したものだから、何の蓄えもなく、同じラーメンやさんに私より2か月遅れでやってきた北海道の子とスーツケースひとつで4畳半のアパートに住んだ。その時ようすを見に来てくれたラーメン屋の先輩にふるまったのが、魚肉ソーセジとキャベツだけのチーャハン。それがなけなしの材料で、傘地蔵の気分だったのを覚えている(笑)。今じゃ笑えるんだけどね。
by さきしなのてるりん (2013-11-16 20:53)
ひょんなことから迷い込み、
時々散策させていただいてます。
いつも、じっくり読めるので、
時間が広がったようで豊かな気分に浸れます。
記憶箱をバサッとひっくり返すと、
まっさきに目に飛び込む色褪せない記憶ってありますね。
by 七生 (2013-11-20 10:36)