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下田逸郎ライブ [音楽]

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下北沢へ下田逸郎のライブを見に行きました。

下田逸郎はいつも、おもむろに語り始め、不意に歌いだす。

そして、繊細なメロディにのせて歌詞を丁寧に発しながら歌う。

この感じが好きで、もう、何十年もこの人のライブに通っている。

歌った後、こんなことを言っていた。

「過去のしがらみは65歳までに消したほうがいい。そうしないと、そこから先へ進めないからね」

なるほど、と思った。

自分を追い越していく過去は、そのまま、やり過ごしたほうがいいのかもしれない。

下田逸郎の代表作は、石川セリのために作った「セクシイ」や松山千春が歌う「踊り子」だが、

桑名正博にも、いい唄を残している。

「月のあかり」という唄だ。

この晩のライブでは、めずらしくこの唄を歌った。

65歳の今も唄を作り旅をしながら歌い続ける姿は、とても素敵でした。

「月のあかり」 桑名正博ヴァージョン&下田逸郎ヴァージョン




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あの頃のまま [音楽]

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夏になると「ブレッド&バター」を聴きながら湘南のことを考えたりする。

「ブレッド&バター」は、1969年にデビューした湘南サウンドのポップデュオ。

ポップソングの歌い手がいなかった60年代後半から、キャリアをスタートさせている。

少年のような彼らのハーモニーは、69歳と64歳になった今も変わらない。

右:岩澤幸矢=イワサワ サツヤ(69歳)

左:岩澤二弓=イワサワ フユミ(64歳)

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スティービー・ワンダーは、彼らの歌声を気に入り「Remember Love」という曲を書き下ろした。

松任谷由実も、 彼らにしか歌えない曲として「あの頃のまま」という曲を捧げている。

僕がそのレコードを買ったのは80年代の初め頃だろうか。

それ以来、彼らのライブには何度も出かけた。

90年代の夏、観音崎のホテルのプールサイドで週末に行われていたライブが忘れられない。

そのライブに毎週通ってくる観客の中には、松任谷夫妻、南佳孝、結婚前の安田成美らもいた。

ライブが終わると、ホテルで彼らと飲み明かし、みんなで夜明けの海に飛び込んだりした。

その時、ユーミンが言っていた言葉が印象深い。

「ブレバタの音楽には、西海岸の風があるんだよね。

ふたりの声が交わってやがて透明になり、そこにはやっぱり海の光がある」

「あの頃のまま」詞曲:呉田軽穂(松任谷由実)

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漂泊の歌人 下田逸郎 [音楽]

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16歳の時から現在まで、僕が40数年聴き続けている音楽家がいる。

下田逸郎という人だ。

70年代のヒットソング「セクシイ」や「踊り子」などの作者として記憶している人も多いと思う。



下田逸郎は60年代末に、寺山修司が主宰する「天井桟敷」の演出家だった東由多加らと

「東京キッドブラザース」を結成した。

1970年にはロックミュージカル「The Golden Bat」を

NYのオフ・ブロードウェイで上演し10ヶ月のロングランを成し遂げた。

下田逸郎の音楽の独創性は高く評価され、ニューヨークタイムズは彼を

「天才」ともてはやした。

「東京キッドブラザース」の演出家東由多加との2ショット。

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僕が初めて彼の音楽を知ったのもその頃だった。

日本的抒情の中にある、しなやかな美しさとはかなさに惹かれ、

ツェッペリンやピンクフロイドと同じように「東京キッドブラザース」の

『黄金バット』というライブレコードを毎日のように聴いていた。

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下田逸郎はNYから帰国後、「遺言歌」というレコードを制作し

「東京キッドブラザース」を離れ、日本を脱出する。

寺山修司や東由多加らの脚本に音楽を付けていた下田逸郎にとって

「遺言歌」は初のオリジナルアルバムだった。

そのアルバムのインナースリーブには、こう書かれていた。

「私は天才の道からはずれて 神の道を歩むつもりです 皆様いつまでも平和に 

それではお元気でさようなら」

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その後、フランスやスペインを放浪した後、NYの「Cafe Lamama」で自作のミュージカルを上演。

1973年に帰国し、セカンドアルバム「飛べない鳥飛ばない鳥」を制作。

下田逸郎の音楽は、それまで自分が聴いたことのない領域の曲で、

歌詞をかみしめるような独特な唄いかたが僕を魅了した。

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1975年、下田逸郎はラヴソングの歌い手として矢沢永吉らとともにCBSソニーからデビュー。

「セクシイ」「踊り子」「ラブホテル」などを歌い、石川セリや松山千春などに楽曲を提供していたが、

売れる曲を求める業界と、歌いたい曲を作ろうとする自分の歯車がきしみ始め、

30代半ばで音楽活動から手を引いてしまう。




1984年、またしても日本を脱出し、しばらくエジプトに滞在していた。

帰国した後は長崎、沖縄、種子島、北海道などを放浪し、木こりや漁師、養豚などの職を

転々としていたという。

僕は30代になっていたが、その間も下田逸郎のレコードをずっと聴いていた。

「やっぱり自分には歌しかない」

下田逸郎は40代で活動を再開した。

ただ売るための歌ではなく「本当に作りたい歌をやろう」と決めて。



1989年、下田逸郎は東京に戻り、年1枚のペースでアルバムを発表していく。

2010年にはNYの「Lamama」で4日間のライブも行われた。

いっさいの飾りを廃した丸裸の状態で歌われる40年分の歌は、

どれも今生まれたばかりのような輝きを放っていた。

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終わることのない愛

実ることのない愛

それをどこまでも追いかける

人間の透明な瞬間

あきらめながら 捨てながら

それでも 浮かび上がろう 飛ぼうとしている時

人間の美しさとさびしさが

ひとりひとりの闇にピーンと張りつめた時

ホントの唄があります

帰ること 旅立つことは同時に起こります

どこまで深く帰って どこまで深く旅立つか

そんな人間のラブソングを唄います

下田逸郎
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