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同窓会 [70年代クロニクルズ]

「シモン」と名乗る男がいた。

みんなが彼のことを「シモン」と呼んでいたが、本名は誰も知らなかった。

「シモン」と言う名前の由来も聞いたことはなかった。

たぶん「四谷シモン」か「ニーナ・シモン」からきているのだろうと、当時の僕は思っていた。

ほら貝.jpg

「シモン」は、いつも国分寺のロック・バー「ほら貝」に入り浸り、

新参の客が来ると、誰かれかまわずオルグをはじめる。

壊れたソファに座り、相手を引き込むような独特の話し方で、

学生運動の理論武装の重要さについて語るのだ。

僕は学生運動よりも、ギッシリと詰め込まれた店のレコード棚のほうに興味があったので、

「シモン」は、それ以上僕をオルグることはなかった。

「ほら貝」は日本で最古のロック・バーで「部族」と呼ばれる人たちが多く集まっていた。

国分寺は60年代の純性ヒッピーたちが日本で初めてコミューンを作った街で、

彼らは自分たちを「部族」と呼んでいた。

「シモン」は「部族」のメンバーではなかったが、

当時のヒッピームーブメントから派生した新しい生き方を、

学生運動と言う形で模索していたのだと思う。

その「シモン」が住んでいた東小金井の米軍ハウスを別の友人が紹介してくれ、

僕と家内はそこで暮らすことになった。

彼はハウスの中ではおだやかに暮らしていた、と思う。

大学はとっくにやめていたので、どうやって生活していたのか分からないが、

他の住人にも気を遣ったりして、はにかみやな性格であることも徐々にわかってきた。

しかし、彼の行動は謎めいていてた。

あるとき、しばらくハウスを留守にしていると思ったら、大麻所持で留置されていることがあった。

また、デモの帰りなのか、夜中に血だらけで帰ってきたこともあった。

それ以降、僕たちのハウスにも警らの巡回がしょっちゅう来るようになった。

その一軒家には「シモン」のほか、美大生3人、作曲家1人、映画学科学生の僕と家内が

住んでいたので警らされても仕方ない雰囲気はあったと思う。

そのハウスを去ってから35~36年経ち、みんなそれぞれの道を歩んでいった。

そして今年、しばらくぶりでその時の同居人で同窓会をやろうという話がもちあがった。

しかし「シモン」の連絡先だけがわからない。

国分寺の「ほら貝」も4年前に閉店していて、手掛かりもなくなってしまった。

本名が分からないので、ネットでいろいろなキーワードを検索したが見つからない。

どこかのコミューンで暮らしているのではないかという噂もある。

そうかもしれないと思う。

あのときの思いは、今も変わっていないのだろうか。

酔うとはにかみながら、世の中を変える話をしていた「シモン」に会いたい。

他のメンバーもそう思っている。

同窓会は7月に渋谷でやることになった。

誰か「シモン」を知ってる人はいませんか?

1970年代半ばに、東小金井の米軍ハウスで暮らし、

国分寺の「ほら貝」でオルグっていた「シモン」を知っている人はいませんか?


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共同生活 [70年代クロニクルズ]

Aホワイトハウス 01.jpg
1970年代の中頃、東小金井にあった米軍ハウスを月7万円で借り受け、

友人たちとシェアして暮らしていた。

福生や立川の米軍ハウスとは違い2階建ての5DKだった。

Aホワイトハウス 03.jpg

Aホワイトハウス 04.jpg
5つある部屋を5世帯で借りると一部屋15,000円ぐらい。

共同だがキッチン・浴室・トイレもついていたのでアパートを借りることを思えば

安かったと思う。

台所にはGE製の大きな冷蔵庫があり、使い方のわからないガスオーブンがあった。

引っ越す前は3畳一間に家内とふたりで暮らしていたので

14畳の屋根裏部屋はとてつもなく広かった。

古道具屋で米軍払い下げの安い家具を買って、その空間を埋めた。

私の部屋-01.jpg
僕たち以外に2組のカップルがいたので、その家には5世帯8人の住人と

2匹の猫が暮らしていた。

毎夜、どこかの部屋にみんなが集まり遅くまで過ごした。

それぞれの住人が別々の友人を連れてくるので

キッチンに行くと知らない人がコーヒーを飲んでいたりした。

誰かが食事を作り始めると、みんなが加わって全員で食べることも珍しくなかった。

Dホワイトハウスの住人・01.jpg
お金が無くなるとバイトに出かけ、僕たちは家族のように暮らした。

あの頃は、共同体やコミューン幻想のようなものをみんなが抱いていた。

「そういう時代」だったのかもしれない。

ささやかないさかいや、わだかまりがなかったわけじゃない。

それでも、お互い助け合い、いたわりあいながら家族のように暮らした。

こういう暮らしは、いつか壊れるものだということもみんな知っていた。

制度や血縁によって結ばれてない関係のなかで、みんなが「家族のようなもの」を

作り上げていたのだと思う。

2年後、ハウスは取り壊されることになり僕たちはハウスから出て行った。

それぞれ別々に暮らすことになるが、その後も途切れることなく僕たちは会っていた。

あれから40年近く経つが、その時のメンバーとは今でも親密に付き合っている。
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